ネパール王族殺害事件|王子が家族を銃殺した悲惨な事件の真相を解説

ネパール王族殺害事件|王子が家族を銃殺した悲惨な事件の真相を解説

事件の概要

ネパール王族殺害事件とは、2001年6月1日、ネパール王室の居城であったナラヤンヒティ宮殿で、ビレンドラ国王とアイシュワリヤ王妃を含む9人の王族が、宮殿での王族の晩餐会の最中に銃乱射で殺害された事件です。政府の調査によると、ディペンドラ王子が犯人とされましたが、実際の事件の真相はいまだに謎のままとなっています。ディペンドラ王子は自らの頭を中で打った後、撃った後、昏睡状態に陥り、ビレンドラ国王の死に伴い昏睡状態のままネパール国王に即位しました。事件から3日後、ディペンドラ王子は意識を取り戻すことなく病院で死亡し、弟ギャネンドラが国王に即位しました。

事件のあったナラヤンヒティ宮殿の所在地

関連する人物

ネパール王族殺害事件の関連人物の相関図

※拡大推奨※

犯人

ディペンドラ王子(事件当時:29歳) 当時のネパールの国王、ビレンドラ国王の息子で、王位継承順位1位。

犠牲者

死者

ビレンドラ国王(事件当時:55歳) 当時のネパールの国王。ディペンドラ王子の父親。
アイシュワリヤ王妃(事件当時:51歳) 当時のネパールの王妃。ディペンドラ王子の母親。
シュルティ王女(事件当時:24歳) ビレンドラ国王とアイシュワリヤ王妃の娘。ディペンドラ王子の妹。
ニーラージャン第二王子(事件当時:22歳) ビレンドラ国王とアイシュワリヤ王妃の息子。ディペンドラ王子の弟。
シャンティ(事件当時:59歳) ビレンドラ国王の姉。ディペンドラ王子の叔母。
シャラダ(事件当時:58歳) ビレンドラ国王の姉。ディペンドラ王子の叔母。
ディレンドラ(事件当時:51歳) ビレンドラ国王の弟。ディペンドラ王子の叔父。
カドガ・ビクラム・シャハ(事件当時:61-62歳) シャラダの夫。ディペンドラ王子の叔父。
ジャヤンティ(事件当時:54歳) ビレンドラ国王の従妹。

負傷者

ショーバ・ラージャ(事件当時:52歳) ビレンドラ国王の妹。ディペンドラ王子の叔母。
ゴラーク・シャムシェル(事件当時:不明) シュルティの夫。ディペンドラ王子の義兄。
コマル(事件当時:50歳) ギャネンドラの妻。ディペンドラ王子の叔母。
ケタキ・チェスター(事件当時:53歳) ビレンドラ国王の従妹。ジャヤンティの妹。
パラス(事件当時:29歳) ビレンドラ国王の甥で、ディペンドラ王子の従兄弟。ギャネンドラの息子。軽傷。

その他

デヴィヤーニ・ラナ(事件当時:29歳) ディペンドラ王子が結婚を希望した女性。
ギャネンドラ(事件当時:50歳) ビレンドラ国王の弟で、ディペンドラ王子の叔父。地方視察の兼ね合いで晩餐会を欠席。ディペンドラ王子の死後、国王に即位。

事件の動機

ディペンドラ王子が殺人を犯した動機は不明で、諸説あります。
1つ目の説は、ディペンドラ王子はイギリスで知り合ったデヴィヤーニー・ラナと結婚を希望していましたが、彼女の母親の実家がインドの下級王族であることや、彼女の父親の政治的立ち位置の兼ね合いから、王室結婚を反対したことが原因の1つと言われています。
デヴィヤーニの実家であるグワリオール家はインドで最も裕福な旧王家のひとつで、ネパール王室よりもはるかに裕福だったと言われています。デヴィヤーニーの母親は、ディペンドラ王子と結婚すれば生活水準が下がるかもしれないと娘に警告もしていました。王室によって選ばれたディペンドラの妃候補は、ネパールのラナ王朝の本家筋である、デヴィヤーニーとは別の女性でした。また、ディペンドラ王子がデヴィヤーニと結婚すれば、インドからの影響を受ける可能性が高くなるとされ、王宮側はそれを懸念していました。

他にも、また、ディペンドラ王子がネパールが絶対君主制から立憲君主制に移行したことに不満を抱いていたとする説や、1990年の人民運動後にネパール王室が権力を手放しすぎたことに対する不満が原因とする説もあります。

2006年の革命によってネパールの王制が廃止された今日でも、事件の概要の多くがベールに包まれています。 事件時の警備が明らかに不十分であったこと、ディペンドラ王子の死後、王位に即位した叔父であるギャネンドラが事件当時不在であったこと、ディペンドラ王子は右利きであったのにも関わらず、左のこめかみに自傷の傷があったこと、事件の捜査期間がわずか2週間であったこと、ロンドン警視庁から科学捜査の協力の申し出があったにもかかわらず、大規模な科学捜査が行われなかったことなどが挙げられます。

事件後

事件の翌日、王族は国葬となり、パシュパティナート寺院の前で荼毘にされました。ディペンドラ王子は昏睡状態で国王に即位しましたが、事件から3日後の2001年6月4日に死去しました。ギャネンドラはディペンドラ王子が昏睡状態であった3日間は摂政に任命され、ディペンドラ王子の死後、自ら国王に即位しました。

事件の調査委員会は、事件に関する調査を1週間にわたって実施しました。 目撃者や宮殿の職員などを含む100人以上から聞き取り調査を行った結果、ディペンドラ王子が銃撃事件の加害者であると結論づけられました。 しかし、ネパール内外からは、ディペンドラ王子がこの事件の犯人であることに疑問の声が寄せられました。

この事件はネパールの政治的混乱に拍車をかけました。ギャネンドラの即位後、ネパール王室はネパール国民の支持を大きく失い、この事件が2006年のネパール王室廃止に大きく影響を与えたという意見もあります。

陰謀説

ビレンドラ国王とディペンドラ王子は、ネパール国民から非常に人気があり、尊敬されていました。

事件当日、ギャネンドラは視察を理由に晩餐会を欠席し、他の王族は晩餐会に出席していました。ギャネンドラの妻のコマル、息子のパラスは事件に鉢合わせましたが、ビレンドラ国王とディペンドラ王子の家族全員が殺害されたのに対し、ギャネンドラの家族は誰も死亡しませんでした。パラスは軽傷で済み、コマルは命にかかわる銃創を負いましたが一命を取り留めました。これらの条件が陰謀説を生んだとされています。