ルース・アン・ムーアハウス|マンソン・ファミリーのメンバー

ルース・アン・ムーアハウス|マンソン・ファミリーのメンバー

ルース・アン・ムーアハウス(Ruth Ann “Ouisch” Moorehouse)

1952年1月6日生まれ(テート・ラビアンカ殺人事件当時:17歳)

マンソン・ファミリーの元メンバー。

生い立ち

ルース・アン・ムーアハウスは1952年1月6日、カナダのオンタリオ州トロントで、元プロテスタント牧師ディーン・アレン・ムーアハウスとオードリー・ルシル・サープレス間の4番目で末っ子として誕生しました。その後、カリフォルニア州に引っ越し、ムーアハウスはカリフォルニア州の高校に通っていました。1967年8月、ルースの父親であるディーンとチャールズ・マンソンの交友に違和感を覚えた母オードリーが離婚し、ルース・アンは姉と暮らすようになりました。

マンソン・ファミリーへの加入

1967年、ルース・アンの父ディーン・ムーアハウスは、ヒッチハイカーとして拾ったチャールズ・マンソンと親しくなりました。ディーンはマンソンをサンノゼの自宅での夕食に招待し、その後マンソンは頻繁にムーアハウス家に訪れるようになりました。

マンソンはすぐに当時15歳だったルース・アンに興味を持ちました。マンソンはムーアハウスの隣人からピアノと引き換えに譲り受けたばかりのフォルクスワーゲンのマイクロバスでルース・アンを海岸沿いの旅に連れ出しました。その結果、両親はルース・アンを家出人として届出を出し、ルース・アンは保護されマンソンは業務妨害の罪で逮捕されました。

1968年5月20日、ルース・アン・ムーアハウスは23歳のバス運転手エドワード・ルイス・ヒューベルホーストと結婚し、マンソンから勧められた父親からの自立をしました。ルース・アンによると、この結婚は1日しか続かず、彼女はマンソンとその信奉者が数ヶ月前に移住していたロサンゼルスに移りました。

父親のディーンは、ルース・アンがロサンゼルスに引っ越したことを知ったため、マンソンを訪ねてデニス・ウィルソンの家へと向かいました。マンソンはディーンのを歓迎し、LSD(ドラッグ)を勧めました。ディーンは夏のあいだウィルソンの家で過ごし、庭の手入れをするかわりに、ゲストハウスに住見ました。

ディーンはマンソンの敬虔な信奉者となり、1968年夏にスパーン牧場に住み始めたマンソン・ファミリーと短期間一緒に過ごしました。

マンソンが懇意にしていたレコード・プロデューサーのテリー・メルチャーはルース・アンを気に入り、彼女と関係を持つようになりました。
メルチャーは彼女をシエロ・ドライブの自宅でルース・アンを家政婦として雇おうとしたが、恋人のキャンディス・バーゲンに反対され断念しました。

ルース・アンはテート・ラビアンカ殺人事件には関わりませんでしたが、事件の1週間後、大規模自動車盗難組織の容疑者としてマンソンファミリーのメンバーとともに逮捕されました。武器は押収されましたが、証拠不十分で数日後に一味は釈放されました。

数ヶ月後、デスバレーのマイヤーズ牧場でスーザン・アトキンスは、テート殺人事件についてルース・アンに話しました。ルース・アンは笑いながら答え、アトキンズに最初の「豚」を手に入れるのが待ちきれないと言ったとされる。ルース・アンは後にバーバラ・ホイトに、テート殺人事件以外に10件の殺人を知っていると話しました。

ムーアハウスは1969年10月10日のバーカー牧場の手入れで再びマンソンファミリーのメンバーとともに逮捕されました。ルース・アンは後に「砂漠で逮捕される直前には、私たち12人の使徒とチャーリー(マンソン)がいた」と回想しています。

刑務所から釈放された後、ルース・アンは母親と一緒にミネソタ州で短期間暮らしました。テート・ラビアンカ殺人事件の公判中、彼女はマンソン一家と再会し、ロサンゼルスの裁判所の外に頻繁に訪れるようになりました。その際、ルース・アンは他のマンソンファミリーのメンバーとともに額に「X」を彫りました。マルース・アンは尋問を受けている間、マンソン・ファミリーに忠実であり続け、殺人について何も知らなかったと主張しました。

ハワイでの殺人未遂

1970年、地方検事は、マンソン・ファミリーのメンバーであったホイトにマンソン・ファミリーに対する証言を求め、ホイトは9月に証言台に立つ予定でした。しかしながら、マンソン・ファミリーからの圧力で、ルース・アンはホイトが証言ができないように彼女を誘い込み、にハワイに休暇へ行きました。マンソン・ファミリーのメンバーは二人に航空券を買い、お金とクレジットカードを渡し、空港まで送リマした。2人は偽名を使用してホノルルへ向かいました。ハワイに着いてから、ホイットが証言しないように説得できなかった場合、ムーアハウスは彼女を殺害することになっていました。

9月9日、ルース・アンはホイトに、「自分はカリフォルニアに帰らなければならないが、ホイトはハワイに残らなければならない」と告げました。ホイトはルース・アンを送りに空港へ一緒に向かい、空港でホイトはハンバーガーを注文しました。ハンバーガーが届くと、ルース・アンが受け取りに行き、ホイトは代金を支払いました。ホイトはムーアハウスからハンバーガーを渡され、それを食べながらルース・アンのフライトを待ちました。
ルース・アンは搭乗直前に「あのハンバーガーに酸の錠剤が10錠入っていたら、どんな感じか想像してみろ」とホイトへ告げました。その後、ルース・アンが帰った後、ホイトはハンバーガーに10錠の錠剤が入っていることに気付き、トイレで嘔吐しました。実際にホイトのハンバーガーにはLSDの錠剤が混入されていました。ホイトは病院に搬送され、一名を取り留めました。

その後

1970年12月18日、ルース・アン、ライス、グローガン、フロム、キャサリン・シェアは、ホイトの殺人未遂で起訴されました。1971年2月26日、テート・ラビアンカ殺人事件の裁判で、妊娠したムーアハウスが証言台に立ち、反対尋問が行われました。ルース・アンはマンソンの弁護士からも質問を受け、テート事件の夜、マンソンはスパーン牧場から数マイル離れた滝にいたと発言しました。

1971年3月23日、ルース・アン、シェア、フロム、グローガン、ライスは、「目撃者の口止め」という軽い罪で無罪を主張することが許され、殺人容疑は取り下げられました。翌月、シェア、フロム、グローガン、およびライスは、「目撃者の口止めの罪」で90日間の実刑判決を受けました。ルース・アンは判決公判に出席せず、ネバダ州の妹と暮らすために州から逃亡しました。1971年4月10日、ムーアハウスは娘を出産し、ミネソタの母親の家に戻りました。

1972年10月6日、建設作業員の男と結婚し、翌年、娘が誕生しました。1975年、FBIは、サクラメントに住んでいたルース・アンを発見しました。サクラメント当局に知らせたところ、4年前に出ていたホイット殺害未遂の令状でルース・アンは逮捕されました。保釈金は1000ドルとされ、家族が保釈金を払ったので、ルース・アンはその日のうちに釈放されました。その1週間後、ムーアハウスは弁護士のフィッツジェラルドと共に出廷し、ました。フィッツジェラルドは、ムーアハウスが判決公判に出頭しなかったのは当時妊娠9ヶ月だったからで、マンソン・ファミリーのメンバーのフロムとサンドラ・グッドはネバダ州にいるムーアハウスの妹に嫌がらせをして、ルース・アンにマンソン・ファミリーに戻るように促していたと主張しました。11月4日、判事は彼女が父親に捨てられ、「マンソン・ファミリーに放り込まれた」としたため、刑期なしと判決を出しました。

1975年、ムーアハウスは額から「X」を取り除く整形手術を受けました。ミネソタ州に移り、13回目の結婚をし、息子を2人産んだ後に離婚しています。