ツァボの人食いライオン|ケニアで135人もの人を食い殺したライオンとは?

ツァボの人食いライオン|ケニアで135人もの人を食い殺したライオンとは?

ツァボの人食いライオンは、ケニアのツァボ地方に生息する2頭のライオンの雄です。1898年3月から12月にかけて、ケニア・ウガンダ間のウガンダ鉄道の建設作業員の多くを食い殺しました。このライオン達は135人もの人を食べたとも言われています。人食いライオンの恐ろしさは、2頭は鉄道現場総監督のジョン・ヘンリー・パターソンによって射殺され、後に剥製とされ、シカゴのフィールド自然史博物館に展示されました。

ツァボの場所を示す地図

襲撃の始まり

ウガンダとキリンディニ港を結ぶ鉄道建設の一環として、1898年3月にイギリスはケニアのツァボ川に鉄道橋を建設し始めました。建設現場は約13キロにわたる広大なエリアに広がり、ほとんどがインド系労働者で構成される数千人の作業員が滞在していました。このプロジェクトはジョン・ヘンリー・パターソン中佐が指揮し、彼は人食いライオンによる殺人事件が始まる数日前に到着しました。

建設作業が進む9か月間の間、ツァボ川周辺には沢山のたてがみのない雄ライオンが現れ、夜中に作業員をテントから引きずり出して食い殺しました。襲撃が止まる時期もありましたが、近隣の集落から同様のライオンの襲撃があったとの情報が入りました。ライオンが建設現場の方に再び現れると攻撃がエスカレートし、ほぼ毎日のように人が襲われました。作業員達はライオンを追い払おうとし、キャンプファイヤーや囲いを建てて守りに徹しましたが、これらの試みはすべて無駄で、ライオンはフェンスを飛び越えたり、くぐり抜けたりしました。パターソンは、最初の襲撃では一度に1匹のライオンのみの襲撃でしたが、徐々に大胆になり、2匹同時に人を襲うようになりました。

ライオンによる襲撃が激化すると、数百人の作業員がツァボから逃げ出し、鉄道橋の建設は一時中断しました。この段階で、危機感を感じた植民地当局が介入しました。

ライオン狩り

ライオンを撃退するために約20人の武装したセインド兵が派遣され、パターソン達と一緒になり罠を仕掛けたり、夜中にライオンを待ち伏せをしました。その後幾度となく失敗しましたが、1898年12月9日に片方のライオンをパターソンが射殺しました。20日後、2匹目のライオンを発見し、射殺されました。最初に射殺されたライオンの体長は、鼻から尾の先までで9約2.95メートルもあり、男性8人がかりでライオンの死体を運びました。

パターソンは自身の記録で、最初のライオンはライフルによる1発の弾丸で負傷させたと述べています。この一撃はライオンの後ろ脚に命中しましたが、絶命させることはできず、ライオンは逃亡しました。夜になるとライオンはパターソンを襲撃するために戻ってきました。パターソンはより威力の強いライフルでライオンの肩を貫通するように撃ち、翌朝、建設作業場の近くで死んでいるのが発見されました。

2匹目のライオンはパターソンにより9発ほど撃たれましたが、絶命することはせず逃げ延びました。それから11日後、2匹目のライオンはパターソンに発見され、2発の銃弾を打ち込まれましたが、またも逃げ延びました。翌日、再度パターソンはライオンを発見し6発銃弾を打ち込みました。これが決定打となり、ライオンは絶命しました。