三毛別羆事件|日本で最も死者数を出したといわれる獣害事件の全貌はいかに?相関図でわかりやすく解説!

三毛別羆事件|日本で最も死者数を出したといわれる獣害事件の全貌はいかに?相関図でわかりやすく解説!

三毛別羆事件

事件の概要

1915年(大正4年)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別で発生した獣害事件。

三毛別の場所

事件に関連した主な人物

名前 年齢(事件当時) 概要
太田三郎 42歳 阿部マユの内縁の夫。12月9日は畑仕事に出ていて不在だったため、ヒグマの襲撃を逃れた。
阿部マユ 34歳 太田三郎の内縁の妻。12月9日にヒグマに殺害される。
蓮見幹雄 6歳 太田三郎と阿部マユに養子に迎えれる予定だった男児。12月9日に阿部マユとともにヒグマに殺害される。
明景安太郎 40歳 明景家の戸主。マタギの山本に救援を依頼する。
明景ヤヨ 34歳 明景安太郎の妻で妊婦。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマに襲われ重症を負うも生還。
明景力蔵 10歳 明景家の長男。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマからの襲撃に遭遇するが、雑穀俵の後ろに隠れ生還。
明景勇次郎 8歳 明景家の次男。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマからの襲撃に遭遇するが、重症を負った母ヤヨと弟梅吉と脱出し、奇跡的に無傷で生還。
明景ヒサノ 6歳 明景家の長女。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマからの襲撃に遭遇するが、失神し居間で倒れていて無事に生還。
明景金蔵 3歳 明景家の三男。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマからの襲撃に遭遇し、死亡。
明景梅吉 1歳 明景家の四男。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマに襲われ重症を負うも生還。
斉藤石五郎 42歳 斉藤タケの夫。事件を通報するため、15km以上離れた役場や警察に向かっていた為、ヒグマからの襲撃にあわなかった。
斉藤タケ 34歳 斉藤石五郎の妻で妊婦。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマから上半身から食われ死亡。それに伴い胎児も死亡。
斉藤巌 6歳 斉藤家の三男。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマからの襲撃に遭遇し、死亡。
斉藤春義 3歳 斉藤家の四男。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマからの襲撃に遭遇し、死亡。
長松要吉 59歳 太田宅の寄宿人。12月10日は男手として明景邸に滞在していた。12月10日に明景邸にいたところ、ヒグマに襲われ重症を負うも生還。
山本兵吉 57歳 猟師。7名を殺害3名に重症を負わせたヒグマを撃ち殺した。

事件の詳細

事件発生までの経緯

1915年11月中旬の明け方、北海道の西海岸から11キロほど内陸に入った三毛別の池田に、ヒグマが出現した。ヒグマの出現に家馬は慌てたが、ヒグマはトウモロコシだけを奪って逃走した。当時、三毛別は開拓地であり、野生動物の民家への侵入は珍しいことではなかった。

1915年11月20日、再びヒグマが出現した。馬の安全を心配した池田家の当主は、マタギ2人を呼び寄せた。

11月30日、再び現れたヒグマをマタギが打ったが、仕留めることはできなかった。翌朝、ヒグマの足跡をたどると、鬼鹿山に続いていた。マタギ達はその足跡を追ったが、吹雪のため引き返した。怪我をしたヒグマが人間を恐れるようになり、集落を荒らさなくなると考えたからであった。

12月9日、太田家への襲撃

1915年12月9日午前10時半、巨大ヒグマが三毛別の太田家に出現した。
農家であった太田三郎の妻、阿部マユと、養子に迎えいれる予定だった男児、蓮見幹雄が家にいた。太田三郎は畑に出ていて、家には不在であった。家屋に侵入したヒグマに幹雄は頭を噛まれ、殺害された。マユは薪を投げて反撃し、逃げようとしたが、薪を投げて逃げようとしたところをヒグマに追い倒され、森に引きずり込まれた。当時の記述によると、現場は屠殺場のようであり、床には血溜まりができていたという。

翌朝、村人の斉藤石五郎は事件を警察に伝え救援を求むために、明景安太郎山本兵吉というマタギに救援を求むために村を出た。ヒグマの駆除とマユの遺体の回収のため、30人の捜索隊が編成された。ヒグマを発見し、5人の男がヒグマへ銃口を向けたが、銃の手入れが行き届いておらず、発砲できたのは1人だけだった。ヒグマが逃げた後、猟師たちは近隣を捜索し、木の根元の雪上に乾いた血痕を発見した。雪の下に頭部と脚の一部だけが残されたマユの死体を発見した。

村人たちは、ヒグマが人肉の味を覚えれば、必ず集落に帰ってくると信じていた。村人たちは鉄砲を持って太田家に集まった。その夜8時頃、熊は再び姿を現した。村人たちはパニックになったが、一人の男が熊を撃つことができた。300メートル離れた別の家に待機していた50人の警備隊が到着した時には、ヒグマは森に消えていた。隊員たちは再び集合し、ヒグマの足跡と思われる道を下流に向かって進んだ。

相関図:三毛別羆事件相関図、12月09日

12月10日、明景家への襲撃

太田家襲撃の知らせを受けた三家別にある明景家では、近隣の女子供たちが避難し、囲炉裏の火に集まって怯えていた。明景家は太田宅から500mほど離れたところにあった。外では男達が巡回していた。男達が明景家で夕食をとっていると、ヒグマが太田家に戻ってきたという知らせが入り、男達たちはそちらへ向かった。

明景安太郎の妻ヤヨは、四男の梅吉を背負いながら遅い食事の支度をしていた。外から騒音がしたので確認しようとしたが、その前にヒグマが窓を突き破って家の中に侵入してきた。

そのとき、現場にいたのは以下の人たちである。

明景家

  • 明景ヤヨ(34歳) 明景安太郎の妻で妊婦。
  • 明景力蔵(10歳) 明景家の長男。
  • 明景勇次郎(8歳) 明景家の次男。
  • 明景ヒサノ(6歳) 明景家の長女。
  • 明景金蔵(3歳) 明景家の三男。
  • 明景梅吉(1歳) 明景家の四男。

斉藤家

  • 斉藤タケ(34歳) 斉藤石五郎の妻で妊婦。
  • 斉藤巌(6歳) 斉藤家の三男。
  • 斉藤春義(3歳) 斉藤家の四男。
  • 長松要吉(59歳) 太田宅の寄宿人。

ヤヨがヒグマから逃げようとすると、次男の勇次郎がヤヨの足にしがみついたため、ヤヨは転んだ。ヒグマはヤヨを襲い、梅吉にも噛みついた。

長松要吉は、唯一の男手として明景家に残っていた。要吉が玄関に駆け寄ると、ヒグマは明景母子を放して要吉を追った。ヤヨは子供を連れて逃げ出した。要吉は家具の陰に隠れようとしたが、背中を襲撃された。その後、ヒグマは明景家三男の金蔵と斉藤家四男の春吉を襲って殺し、斉藤家三男の巌に噛み付いた。次に狙われたのは、斉藤石五郎の身重の妻、タケであった。タケもまた、ヒグマに襲われ、食い殺された。後日談として、タケがヒグマに「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と懇願したのを村人が聞いたという。その後、彼女の死体から胎児が発見されたが、間もなく死亡した。

太田家からヒグマを追って川を下っていた男達は、ヒグマの足跡が違うものだということに気がついた。急いで集落に戻ると、重傷を負って逃げてきたヤヨに出会い、明景家襲撃の知らせを聞かされた。男達は生存者の救出を急いだ。明景家に到着すると、家の中は真っ暗だったが、物音が聞こえてきた。人は全員クマに殺されたと思った男達は、家に火をつけようと言い出したが、ヤヨは子供たちがまだ生きていることを願い、それを禁じた。

そして、10人ほどの男達が玄関に立ち、残りの人が家の裏手に回った。そして、合図とともに家の裏手に回った人々が、大声で叫びながら、武器を鳴らして大きな音を立てた。その音に驚いたヒグマは玄関に現れた。驚いたヒグマは家から逃走した。一同は家に立ち入った。

村の人々は近くの学校に避難し、重傷者は川沿いの家屋に収容された。

結果的にこのヒグマの襲撃によって、タケ、金蔵、巌、春義、タケの胎児の5人が殺害された。ヤヨ、梅吉、要吉の3人が重傷を負った。明景家の長男の力蔵と次男の勇次郎、長女のヒサノの3人は無事だった。2日間で胎児を含む7人が命を落とした。

相関図:三毛別羆事件相関図、12月10日

12月11日、ヒグマ駆除の準備

斉藤石五郎は、家族に起こったことを知らぬまま、役所や県警にヒグマによる殺人の件を報告し三家別へ帰ってきた。

ヒグマに息子を殺された明景安太郎も、山本兵吉という熊狩りの名人の家を訪ね、彼と共に三家別へ帰ってきた。山本は、このヒグマが以前3人の女性を襲い死亡させた「袈裟懸け」と名前のついたヒグマであることを確信していた。

帰ってきた明景安太郎と斉藤石五郎は、事件の顛末を聞き、ヒグマ退治のためのグループを結成した。ヒグマが再び現れると信じて、村でヒグマを待つことにしたが、一向に襲ってこないまま一夜が明けた。

12月12日、死体でヒグマを誘き寄せる

翌日の12月12日、三毛別での熊出没の知らせは北海道庁警察部にも届き、討伐隊が編成された。近隣の町から銃と志願者を集め、その日の夕刻、討伐隊は三毛別へ向かった。

ヒグマは中々姿を見せなかった。ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性があり、おそらく死体を回収しようとするはずだが、明景家には遺体はない。そこで、犠牲者の死体で熊をおびき出すという新たな作戦が提案された。この作戦は、太田家、斉藤家、明景家を中心に大反対を受けたが、村の将来のために最善の策と判断された。

その日のうちに作戦は実行に移された。山本兵吉を含む6人の狙撃手は家の中で待機していたが、ヒグマは家の中を確認した後、森へ戻っていった。その夜、ヒグマは家の中には侵入しなかったので、作戦は失敗に終わった。

12月14日、ヒグマ討伐

翌朝、川の対岸を調査したところ、ヒグマの足跡と血痕を発見した山本と村人の1人は、さっそくヒグマを追った。山本は、大人数で行くより2人で行った方が早いということで、2人で熊を追うことにした。

山本は「袈裟懸け」の行動を熟知しており、見事に追い詰めた。山本は、ヒグマが木のそばで休んでいるのを見つけ、ヒグマの20メートルまで接近して撃った。1発目は心臓に、2発目は頭部に命中し、ヒグマに致命傷を負わせ死亡させた。測定したところ、熊は340kg、体高2.7mであった。このヒグマの剖検が行われ、その際に胃の中から犠牲者の一部が発見された。

その後

事件で頭に傷を負ったヤヨは全快したが、母に背負われてヒグマに噛まれた三池梅吉は、その傷がもとで3年足らずで死亡した。

長松要吉は怪我から回復し仕事に復帰したが、翌春、川に落ちて死亡した。この後、三家別の村人はほとんどいなくなり、急速に廃墟と化した。

事件当時、三毛別の村長の息子で7歳だった大川春義は、熊狩りの名人として成長した。「犠牲者1人につき10頭の熊を殺す」という誓いを立て、62歳になるまでに100頭以上の熊を仕留めた。そして、引退後、犠牲者の冥福を祈るために「熊害慰霊碑」を建立した。