キャサリン・シェア|マンソン・ファミリーのメンバー

キャサリン・シェア|マンソン・ファミリーのメンバー

キャサリン・ルイーズ・ジプシー・シェア(Catherine Louise “Gypsy” Share)

写真:キャサリン・シェア
キャサリン・ルイーズ・ジプシー・シェア(Catherine Louise “Gypsy” Share)

1942年12月10日生まれ(テート・ラビアンカ殺人事件当時:26歳)

マンソン・ファミリーの元メンバー。

生い立ち

シェアはハンガリー人でバイオリニストの父とドイツ系ユダヤ人の母の間に、パリで生まれました。両親は第二次世界大戦中、フランスのレジスタンス運動(第二次世界大戦下のナチス=ドイツの占領に対して戦われたフランス人の抵抗運動。)のメンバーで、シェアが2歳の時に自殺しています。母方の祖母と父方の祖父母はユダヤ人強制収容所で亡くなっています。父親は自殺する前にフランス人弁護士と協力し、娘の国外脱出を計画しました。その結果、シェアはアメリカ人夫婦の養子になることになりましたが、その夫婦は夫の浮気が原因で離婚したため、養母が親権を持つことになりました。その後、養母がアメリカ人の心理学者と結婚し、カリフォルニア州ハリウッドに移り住んだ。シェアが16歳の時に養母が癌に侵され自殺するまでは、幸せだったとシェアは語っています。
養父が再婚した後、大学を中退し、カリフォルニアを放浪し、1960年代のカウンターカルチャー(前からある主流の文化に対抗する文化。ここからヒッピー文化などが生まれた。)に没頭しました。

マンソン・ファミリーへの加入

1967年初頭、シェアはポルノ映画のセットでボビー・ボーソレイユと出会いました。テート・ラビアンカ殺人事件には直接関与していませんでしたが、1970年の裁判で、犯行への関与を免れるために、マンソン・ファミリーのメンバーであるリンダ・カサビアンがシェアが首謀者であると虚偽の証言をしました。

1970年12月18日、シェアは他の4人(リネット・スクイキー・フロム、デニス・ライス、スティーブ・クレム・グローガン、ルース・アン・ウイッシュ・ムーアハウス)のマンソン・ファミリーのメンバーと共に、テイト・ラビアンカ殺人事件の裁判で、元マンソン・ファミリーの仲間であったバーバラ・ホイトが検察側に対して証言しないよう殺害計画を立てたため殺人未遂で告訴されました。結果としてホイトは一名を取り留めましたが、その結果シェアは有罪判決を受けて、90日間服役しました。

投獄されている間、シェアは1971年1月5日に息子フェニックスソンを出産しました。息子は里親に預けられました。出所後、息子と再会し、スティーブ・”クレム”・グローガンが父親であることが判明しました。

出所後の1971年8月21日、シェアは当時の夫ケネス・コモと、マンソン・ファミリーのメアリー・ブルナー、デニス・ライス、チャールズ・ロベット、ラリー・ベイリーと共に小売店に強盗し逮捕されました。彼らは以前にも酒屋を襲っていたことが判明しています。 その結果、シェアは逮捕され刑務所で5年間服役し、1975年に出所しました。出所後、シェアはマンソン・ファミリーと縁を切りました。

マンソン・ファミリー脱退後

マンソン・ファミリーと、シェアは郵便詐欺やクレジットカードの不正利用など複数の罪で逮捕され、有罪判決を受けています。その後、テレビのインタビューを受けたり、回顧録を出したりと、たびたびメディアに出演しています。