レーベンスボルン|ナチスの赤ちゃん工場の実態を徹底解説

レーベンスボルン|ナチスの赤ちゃん工場の実態を徹底解説

レーベンスボルンは、ナチスによって、ナチスの人種における優生学に基づき、「人種的に純粋」で「健康な」アーリア人というナチスの基準を満たす子供の出生数を増やすことを目的として作られた施設です。レーベンスボルンは「生命の泉」または「生命の泉協会」とも翻訳されます。レーベンスボーンはハインリヒ・ヒムラーによって設立され、未婚の女性による産院でのアーリア人の子供の匿名出産を奨励し、同様に人種的に純粋で健康な親、特にナチ親衛隊員とその家族の養子を斡旋しました。

設立の背景

ドイツの年間出生数は1920年には約90万人にのぼりましたが、第一次世界大戦に敗戦し200万人の戦死者が出たことによって、1932年には年間出生数は約51万人に激減しました。また、大戦後の1929年からの世界恐慌による生活苦によって堕胎施術が流行し、出生数に影響を与えました。

レーベンスボルンは、上記のようなドイツの出生率低下に対抗し、また、ナチスの人種における優生学を促進するために1935年12月にミュンヘンに設立されました。

推進

当初、レーベンスボルンはナチス親衛隊の妻のための福祉施設として機能していました。レーベンスボルンは、女性が出産したり、家族に関する援助を受けたりできる施設を運営していました。また、妊娠中または出産後で援助を必要としている未婚の女性も、女性と子供の父親の両方がアーリア人と分類されることを条件に受け入れられました。

母親たちの約6割は未婚でした。レーベンスボルンでは、近隣の目を気にすることなく、自宅から離れた場所で密かに出産することができました。母親が子供を手放したいと思った場合には、プレーベンスボルンの孤児院と養子縁組サービスも利用できました。

最初のレーベンスボーンは、1935年12月にミュンヘンに開設されました。ドイツ国外では、1941年にノルウェーで開設されたのが最初でした。レーベンスボーンの多くは、ユダヤ人から没収された家や元老人ホームを利用して設立されました。ドイツ少女同盟の指導者たちは、ナチス親衛隊将校の良い交配相手になる若い女性を集めるように指示されていました。

ミュンヘンの場所

レーベンスボーンはナチスの占領国に施設を設立しましたが、その中でも主にドイツ、ノルウェー、占領下の北東ヨーロッパ(主にポーランド)に集中しました。占領下のノルウェーでは、ノルウェー人女性とドイツ兵の間に生まれた子供の援助に主眼が置かれました。北東ヨーロッパでは、ナチス親衛隊員へのサービスに加えて、子供たちをドイツの家庭に移送する活動も行っていました。

レーベンスボルンは、それぞれ以下の国に設立されました。

国別レーベンスボルンの設立数(設立予定だったものも含む)

設立数
ドイツ 10
オーストリア 3
ポーランド(ポーランド占領地およびポーランド併合地) 6
ノルウェー 9
デンマーク 2
フランス 1
ベルギー 1
オランダ 1
ルクセンブルク 1

ドイツでは約8,000人、ノルウェーでは8,000人から12,000人の子どもがレーベンスボルンで生まれました。

ノルウェーでは、レーベンスボルンによって約250件の養子縁組が執り行われました。これらの養子縁組のほとんどで、母親は養子縁組に同意していましたが、自分の子供がドイツに養子として送られることを全員が知らされていたわけではありませんでした。ノルウェー政府は戦後、養子縁組に出された子どものうち170人を自国に取り戻しました。

ドイツ化政策

1939年、ナチスはレーベンスボルン計画のために、主にユーゴスラビアとポーランドを中心とした外国から子どもたちを誘拐し始めました。その脅威はロシア、ウクライナ、チェコスロバキア、ルーマニア、エストニア、ラトビア、ノルウェーにまで及びました。
ナチスがこのようなことを行ったのは、近隣のアーリア人とされる子供たちをドイツと同化させることが目的でした。

ナチスは、誘拐された子供たちにいくつかのテストを受けさせ、以下の3つのグループに分類しました。

・ドイツ国民に加わることが望ましい子供たち
・受け入れられる子供たち
・望まれない子供たち

「望まれない子供たち」と分類された子供たちは強制収容所に連れて行かれ、働かされるか殺されました。「ドイツ国民に加わることが望ましい子供たち」「受け入れられる子供たち」と分類された子どもたちは、2歳から6歳であれば、プログラムに参加する家族のもとに預けられ、里子として育てられました。6歳から12歳の子どもたちは、ドイツの寄宿学校に入れられました。学校では子どもたちに新しいドイツ名をつけ、ドイツの一員であることを誇りに思うように教育しました。子供たちには生みの親のことを忘れるよう強制され、先祖の記録は全て破棄されました。ドイツ化政策に抵抗する子供は暴行され、反抗を続ける子供は強制収容所に送られました。

戦争末期には、この政策のために誘拐されたすべての子どもたちの記録は破棄されました。その結果、この政策のために何人の子どもたちが誘拐されたかを特定することは不可能であることが判明しました。ポーランド政府は、約10,000人の子どもが誘拐され、実の親に返されたのは15%未満であったと主張しています。

戦後

裁判

戦後、レーベンスボルンは、「人種的に価値がある」とみなされた子供たちを誘拐したとして告発されました。しかし、戦後、ドイツのアメリカ支配地域にいた約1万人の外国生まれの子供たちのうち、レーベンスボルンの裁判で、裁判所によって誘拐されたと認定されたのは340人のみでした。

裁判所は、北東ヨーロッパにおける子どもの誘拐の十分な証拠を発見しましたが、これらはレーベンスボルンのメンバーではない個人によって行われたと結論づけました。リーベンスボルンによってどれだけの数の子供たちが誘拐されたかは、戦争末期にナチス親衛隊によって記録文書が破壊されたために、正確な数は不明となっています。

戦後の子供たち

ドイツの降伏後、マスコミはレーベンスボルンの子供たちの健康状態が非常に良好であることを報じました。子供たちは毎日定期的に日光浴や入浴をされ、触れるものはすべて最初に消毒されていました。戦争末期まで、レーベンスボルンの母親と子どもたちは、食料も含めて最高の待遇を受けていました。戦争が終わると、レーベンスボルンに行った女性たちは、地元のコミュニティにおいて暴行を受けたり、髪を切り落とされたり、家から追い出されたりしました。レーベンスボルンの子供たちの多くは、未婚の母から生まれ、しばし差別の対象となりました。